自由なチャレンジ精神で松本城を守った市川量造


長野県松本市にある国宝・松本城は、明治時代の初期、民間に払い下げられる事になり、存続の危機に陥りました。しかし松本城を残すために尽力した人がいたのです。市川量造という人です。

市川は天守で博覧会を開き、その売上げで城を維持していくべきだと考え、「建言書」を県に提出します。その頃イギリスではクリスタル・パレスが建てられ、そこで万国博覧会が盛大に開かれていたこともあり、市川も松本城を常設の博物館にしようと構想を練っていました。

県も民間の活力を積極的に活用して文明開化を進めようとしており、博覧会を行なう事を許可。その年の冬に博覧会が開かれ、大成功を収めます。その後も博覧会は5回開かれ、松本城は取り壊しを免れました。

県会議員となった市川は他県の議員の「国会開設」への活動に賛意を表し、自らも国会開設を求める活動を始め、奨匡社(しょうきょうしゃ)という民権結社を設立します。約2万2500人の署名を集め、国会の開設を請願。この活動はいわゆる請願権を国民の権利にしようとした面からも全国的に注目されました。

その後自由民権運動の活動をしながら、市川はさらに松本に鉄道を通す活動にも取り組んでいきます。チャレンジ精神旺盛に、新たな社会創りを目指した市川量造。

自由民権現代研究会で詳しく取り上げましたので、ぜひご一読ください。

自由民権運動の壮士たち 第7回 市川量造・中村太八郎(長野県)