ややリバ的に日本国憲法をシリアスに考える ~公共の福祉とは~(寄稿:小川一樹)
今回の「ややリバ憲法」はTwitter上で質問があった「公共の福祉」について考えてみたいと思います。リバタリアニズムにとっても、現行憲法上の権利自由の制約根拠になるものですので、「敵を知る」という意味において損はないと思います。
ただ、この公共の福祉の概念は学説上も紆余曲折があり、今もなお問題提起がなされていますので、かなり難しい論点です(まあ、憲法上の論点で易しいものなんてないのですが)。
公共の福祉における学説の変化を簡単に説明しますと、次のようになります。
①一元的外在制約説…憲法第12・13条の公共の福祉は人権の外にあり、それを制約することのできる一般的な原理である。第22・29条の公共の福祉は、特別の意味を持たない。(批判)公共のための制限という抽象的な形での人権制限が容易になってしまう。
②内在・外在二元的制約説…公共の福祉による制約が認められる人権は、それが明文で定められている経済的自由権(第22・29条)と、国家の積極的施策により実現される社会権(第25~28条)に限られる。第12条・13条は訓示的な規定であるにとどまり(つまり、法的な効力を持たない)、第13条の「公共の福祉」は人権制約の根拠とはなりえない。(批判)社会権と自由権を画然と区別することは困難(例えば、知る権利には「情報を受ける権利」の他に「情報の公開を請求する権利」のような社会権としての性格も持っている)であり、第13条を訓示的な規定であるとしてしまうと、それを新しい人権を基礎づける包括的な人権条項と解釈できなくなる等。
③一元的内在制約説…公共の福祉とは「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」であり、憲法規定に関わらずすべての人権に論理必然的に内在している。この原理は、自由権を各人に公平に保障するための制約を根拠づける場合には、必要最小限度の規制のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保障するために自由権の規制を根拠づける場合には、必要な限度の規制を認めるもの(社会国家的公共の福祉)として働く。
このような学説は変化しており、現在は③が通説になっています(ちなみに提唱者はあの宮沢俊義教授です)。これにより、漠然とした公共の福祉の内容が限定されましたし、一般的にイメージされがちな公共の福祉=「社会一般の共通の利益」を否定して、個人>社会の構図を確定させた面においては大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
勿論、この学説にも批判があり、例えば、大きな問題としては「憲法上の権利がどのような理由に基づいて、どの程度制約されるのか」について、具体的に判定できないということが挙げられます。ただ憲法学では、この問題は憲法訴訟論における違憲審査基準論の課題とされており、公共の福祉の問題とは離れて行ってしまいました(ですから、人権制約の話は、①「人権には限界があるのか」という人権制約の一般的根拠の話と、②「人権を制約する法律はどのような場合に違憲となるか」という正当化事由=違憲審査基準の問題が混在しており、公共の福祉の話は①の次元の話になります。ですので、違憲審査基準論の問題は今回省きます)。
さらに、より根本的にこの学説を考えてみるとちょっと違和感を抱きませんか?「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」ということは、人権を制約する根拠は必ず他者の「人権」でなければなりません。しかし、実際の生活上、そのような場合でのみ、人権が制約されているわけではありません。
例えば、少し前に「日本一厳しい景観条例」として兵庫県芦屋市の屋外広告物条例が話題となりました。その条例では、市内の全域における建物の屋上広告の禁止や市内を区分した上での看板の大きさや色彩の制限があり、違反した場合には罰金が科されるという内容になっているそうです。この場合、景観条例によって制限される人権としては、表現の自由(憲法第21条)や営業の自由(憲法第22条)等がありますが、それを制限しているのは「景観保護」という利益であり、一般的なイメージの公共の福祉に近いのではないでしょうか?
また、売春防止法は第1条から、その目的は「善良な風俗の維持」「立場の弱い女性を守る」こととされ、個々人の人権に還元されるものではなく、「人権相互の矛盾・衝突」とは言えないでしょう。
もっと突き詰めれば、前回取り上げた自己決定権での話も関わってきます。そこで紹介した現実生活の中での人間の行為一般の自由を保障する一般的自由権説を思い出してください。そこでの自由の概念はかなり広いもので、殺人の権利や強盗の権利、自殺の権利や麻薬の自由、売春の自由やギャンブルの自由等も認められるものでしたが、これらをまともに認めてしまったら、社会生活が成り立たないことは明らかです。ですので、これらの一般的自由は、第13条後段により国家権力が公共の福祉に基づく充分な根拠付けがあれば制約することができると解説しました。つまり、個人の利益には還元しにくい社会的利益保護や国家機能の確保という制約もあり得るということです。
ざっくりと言ってしまえば、確かに公共の福祉とは「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」であるが、それがすべてではなく、one of themということになります。
それに伴い、最近では公共の福祉の内容を細分化及び具体化することがなされています。例えば、内野正幸中央大学大学院法務研究科教授は公共の福祉における人権制限事由として、①他者加害防止(公衆衛生の確保や危害の予防等を含め、他人の利益確保)②社会的経済的制約(政策的制約)③自己加害防止④公共道徳ないし倫理の維持(動物虐待の禁止の場合等)⑤自然的・文化的環境の破壊⑥国家(機関)の正当な統治・行政等の公共的機能の確保が公共の福祉の内容として類型化されています。
また、渋谷秀樹立教大学名誉教授はこの類型を整理して、①他者加害の禁止②自己加害の禁止③社会的法益の保護④国家的利益の保護⑤政策的制約とし、①と③は内在的制約。④と⑤は外在的制約、②はこれらとは異質なパターナリスティックな制約としています(但し、この②を一般的に認めることは権利自由にとって脅威になるので、その制約は限定されます。パターナリスティックな制約については、拙稿「ややリバ的に日本国憲法をシリアスに考える ~前奏~」も参照してください)。
公共の福祉の内容をこのように考えると、リバタリアニズムの権利自由の制約は前回の拙稿「ややリバ的に日本国憲法をシリアスに考える ~自己決定権~」でも述べましたように、自己財産権のテーゼからすれば、制約は原則「内在的制約」(①他人の正当な人権行使を妨げてはならない。②他人の個人の尊厳を傷つけてはならない。②他人の生命健康を害してはならない)に限られ、厳格なものとなりますので、前回と同様で恐縮ですが、公共の福祉による制約はリバタリアニズムの権利自由の制約よりも広範に及ぶことになるでしょう。
以上、今回はリクエストに基づいて、公共の福祉について説明して見ました。このような概念を勉強するのは苦痛を伴いますが、「権利や自由を真剣に考える」リバタリアニズムにおいては言うまでもなく必要な作業だと思います。権利自由についてより深く考えるきっかけとなったら幸いです。また、何かリクエストがあれば、Twitter上で質問してください。
参考文献
長谷部恭男『憲法 第7版』(新世社、2018)
南野森 編『憲法学の世界』(日本評論社、2013)
内野正幸『憲法解釈の論点 〔第4版〕』(日本評論社、2005)
渋谷秀樹『憲法 第3版』(有斐閣、2017) 等
小川一樹(@kazgrease)
憲法学評論家。昭和12年学会会員。法学修士(憲法学)。元高校教師。近著に『蓑田胸喜 天皇機関説攻撃論集』(2019年)『帝国憲法基本書現代語叢書第二巻 市村光恵『憲法精理』』(2020年、以上デザインエッグ社)等がある。
小川 一樹の作品