ややリバ的に日本国憲法をシリアスに考える ~自己決定権~(寄稿:小川一樹)
今回で3回目の「ややリバ憲法」(勝手に省略形を考えちゃいました)。今度の題材は「自己決定権」という自己の個人的事柄について公権力から干渉されずに自ら決定する権利について考えてみたいと思います。
リバタリアニズムは「自由至上主義」と訳されますように、生命・自由・財産を個人が望むままに利用し、行使できることを最高の政治的価値と考え、その結果、政府による個人の干渉は最小限にすべきという主義です。
この根拠は「各人は自分自身の所有者である」という自己所有権、つまり、「自分の身体と財産は自分が同意しない限り、他者によって侵害されることは許されない」「他人の権利を侵害しない限りは、どのように行動しようと自由である」というテーゼ(命題)により導かれます。
この自己所有権を前提にすれば、個人の生活においては完全な個人の自由が貫徹され、多様な価値観を持つ個人の自己決定権が広く認められるという結論になるわけです。
具体的には、基本的人権として認められている精神的自由権や経済的自由権だけでなく、例えば、妊娠中絶の権利や生殖の権利、自殺の権利や麻薬の自由、売春の自由やギャンブルの自由等も肯定され、明らかに馬鹿げた無意味な愚かな行為でもその権利を認めるべきであると考えられています。
勿論、「他人の権利を侵害しない限りは、どのように行動しようと自由である」ので、殺人や強盗の自由等はそもそも「自由」とはみなされないことになるでしょう。
また前回の「ややリバ憲法」でも述べましたように、社会権のような社会的公正としての弱者救済・社会福祉にも配慮する権利は福祉国家的再分配による干渉とみなし、原則的には認めないとしています(論者によりかなり幅がありますが)。ここがリバタリアニズムの大きな問題の一つとされており、貧富の差の拡大や社会的な規制の緩和により労働条件の悪化等をもたらし、また経済的自由を最大限認めて営利を追求すれば、利己主義的に行動したことで、社会的に最適ではない結果がもたらされるケースである「市場の失敗」(例えば、先ほど挙げた貧富の差や失業・公害・地域格差等がある)に対処できないと批判されています。この点は余裕がある人の自発的な寄付行為や慈善事業により、市場原理の競争のみで財が再配分される社会が理想であるとリバタリアニズムからの反論がありますが、皆さんはどう思われるでしょうか?
さて、憲法学ではこの自己決定権をどう考えているのでしょうか?これは、日本国憲法に個別の権利として明記されていないが、一般的な人権として保障されるべきだとされる権利である「新しい権利」の一つとして考えられています。
その根拠条文となるのが憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」であり、「包括的基本権」と呼ばれています。
ここで保障される基本権がどのような性格をもつかについては大きく二つの見解に分かれています。それが一般的自由権説と人格的利益説です。
一般的自由権説は「人間の人格的な生存との結びつきに加え、『個人として尊重される』という観点から、第13条は現実生活の中での人間の行為一般の自由を保障する」という見解であり、人格的利益説は「第13条から導かれる新しい人権は、人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利に限定される」という見解です。
具体的に両説の差異を考えると、例えば、喫煙の権利は人格的利益説からすれば、人格的生存に不可欠であるとはいえないので、第13条後段では保障されないということになるでしょう。一般的自由権説であれば、普通に保障されるという結論になります。
実際、通説(多くの学者が採用している見解)は人格的利益説になっています。その理由は、①新しい人権を無制限に認めると既存の人権の価値が相対的に低下する(いわゆる「人権のインフレ化」)。②新しい人権が他の既存の人権の制約根拠として使用されれば、既存の人権保障が低下する可能性が高くなる。③裁判所の主観的な価値判断により、権利が創設されるおそれがあるとされています。また、判例もはっきりとは言及していませんが、人格的利益説に近いとされています。
ただ、実際には両者はともに排斥し合う学説ではありません。一般的自由権説においても、保障される権利には様々なものがあり、重要な人格的価値があるとされる権利とそうではない権利があることは否定しないでしょうし、人格的利益説においても、人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利でないにしても、何も理由がなく公権力が制約できるとは考えないでしょう。
長谷部恭男早稲田大学法学学術院教授は、「切り札」としての人権(自律的に生きるために必要となる多数意思に反してでも必要となる権利)と公共の福祉に基づく権利を区別し、前者は憲法第13条前段の「個人の尊重」原理を根拠とし、後者は公共の福祉を定めた憲法第13条後段を根拠とすると述べ、人格的利益は第13条前段によって保障されますが、人格的利益でないもの(一般的自由)は、第13条後段により国家権力が公共の福祉に基づく充分な根拠付けがあれば制約することができると主張されています。
上記のように考えると、リバタリアニズムの自己決定権との関係はどう考えればいいのでしょうか?リバタリアニズムの自己決定権の前提である自己財産権のテーゼからすれば、制約は原則「内在的制約」(①他人の正当な人権行使を妨げてはならない。②他人の個人の尊厳を傷つけてはならない。②他人の生命健康を害してはならない)に限られ、厳格なものとなりますが、憲法上の自己決定権の制約は、上記のように権利を区別していることからも厳格なものに基づく場合と、それより緩やかなものに基づく場合に分かれ、リバタニアリズムよりも自由が認められる範囲は狭くなると考えられるでしょう。
個人の自由の最大の敵は侵害をする国家です。ですから、リバタリアニズムは国家権力を最小化するために、法の支配や権力分立によりその権力行使を厳しく統制しようとします。憲法学にとってリバタリアニズムを取り入れる意味は、価値観や利害の異なる個人間で、自由を真剣に考えつつ、それをパターン化してしまっている憲法訴訟における審査基準論等において理論的に考察し直すことにあるのではないかと考えます。
参考文献
長谷部恭男『憲法 第7版』(新世社、2018)
同 『憲法講話 24の入門講義』(有斐閣、2020)
大石眞・石川健治(編集)『憲法の争点(ジュリスト増刊 新・法律学の争点シリーズ3)』(有斐閣、2008)
大島義則『憲法の地図 条文と判例から学ぶ』(法律文化社、2016)
森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001)
同 『リバタリアニズム読本』(勁草書房、2005) 等
小川一樹(@kazgrease)
憲法学評論家。昭和12年学会会員。法学修士(憲法学)。元高校教師。近著に『蓑田胸喜 天皇機関説攻撃論集』(2019年)『帝国憲法基本書現代語叢書第二巻 市村光恵『憲法精理』』(2020年、以上デザインエッグ社)等がある。
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