ややリバ的に日本国憲法をシリアスに考える ~前奏~ (寄稿:小川一樹)


 最近の「ややリバ」的思想の進展により「令和の大減税」が叫ばれて、主にtwitter上でその運動は加速しています。まさしく、「ややリバ」が時代を変える可能性があるということです。

 しかし、私が専門にしている憲法学では「リバタリアリズム」という言葉を基本書(学者が研究の集大成をまとめた憲法や法律に関する体系書)で見ることは、まずありません。

 例えば、学術論文を検索するためのデータベースであるCiNii(NII学術情報ナビゲータ)で「憲法 リバタリアリズム」で検索すると、論文は6本しかヒットされません。それだけ、憲法学ではリバタリアニズムが語られていないということになります(ここで、リバタリアニズムの定義ですが、これがまたソフトなものからハードなものまで幅が広く、難しい。ここでのコンセプトは「ややリバ」ですので、「個人の自由は、経済的平等や公共の福祉といった政治的目標に優先する」「個人の自由を最大限に尊重し、政府による個人の干渉は最小限にすべきである」としておきます)。

 では、検討していきたいのですが…、結論からすれば、日本国憲法とリバタリアニズムの相性は「最悪」です。今回は「前奏」ですので、日本国憲法の制定過程と宮沢俊義という昔の偉い憲法学者の方が「これが原則であ~る!」と決めた、皆さんも小学校で勉強した三大原則の点から論じてみたいと思います。

 まず、制定過程から見ていきましょう。皆さんもご承知の通り、ポツダム宣言を受諾して、GHQによる占領が始まりましたが、憲法制定で中心となったのは民政局です。そのメンバーであったケーディスたちはニューディーラーと呼ばれる社会民主主義者(議会制民主主義の方法により議会を通して平和的・漸進的に社会主義の実現を目指す思想・運動)であり、また旧ソ連の協力者が関わっていた事実からもリバタリアニズムとは反対の方向を向いています。

 ニューディーラーたちは、例えば、財産権制約を容易にする財産権条項を第29条に結実させました。三大原則の一つである「基本的人権の尊重」に関わるものですが、先取りしてしまいます。第29条第2・3項で「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」等、国家権力による介入を前提としています。

 さらに、第13条で「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」としており、「個人として尊重」という文言からはリバタリアニズムに対して好意的と思えそうですが、結局は「公共の福祉」(簡単に言ってしまえば、人権を制限するための根拠)により、人権や自由は制約されることが前提です。

 ここで制約の正当性を測る基準として、憲法学には有名な「二重の基準」論があります。様々な細かい議論があるのですが、ザックリと言ってしまえば、法律等による人権の規制が憲法に違反しているかどうかについて、「精神的自由は厳格な違憲審査基準を用い、経済的自由には緩やかな審査基準を用いる」という審査基準のことです。これはリバタリアニズムからすれば認められるものではありません。なぜなら、精神的自由と経済的自由の価値に差はなく、財産権も不可侵と考えていますので、違憲審査基準に差を設ける必要性はないからです。

 また、立憲主義(憲法によって政治権力を制限するという原理)の歴史的展開から見ると、「19世紀の夜警国家から20世紀の福祉国家へ」という国家の役割の文脈の中で、日本国憲法でも社会権(国家に積極的な配慮を求める権利)が制定されました。その実現のために財産権等が制約されやすくなっています(先ほどの第29条の条文内容も、ややリバ最大の敵である「増税」もこの文脈です!)。更に、そのことは人権に対するパターナリスティックな権力的介入(自己加害を規制するために加える制約)の問題にも繋がり、ともにリバタリアンとすれば、「大きなお世話」でしょう。

 次に、三大原則に移ります。「基本的人権の尊重」については先ほどザックリと述べましたので、まずは「国民主権」とリバタリアニズムの関係を考えてみます。

 国民主権とは「国民が主権を有する」ということであり、難しいのは「主権」の意味です。この意味も多岐に分かれているのですが、ここでの主権は「国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威」という意味です。その決定は通常、「多数決」で行われます。そして日本国憲法では、その方法を原則的に代表民主制で行い、例外的に直接民主制(例えば、憲法改正の国民投票)で行うとしています。つまり、このことは方法がどうであれ、多数による国家介入を正当化することになり、個人的な自由や自律を重んじるリバタリアニズムからは原理とすることは難しくなるのではないでしょうか?

 但し、これは原理として難しいという意味であり、排斥されるという意味ではありません。個人的には、裁判所による少数者保護に代表される「法の支配」(専断的な国家権力の支配を排し、権力を法で拘束する原則)の方がリバタリアニズムからは原理としてふさわしいと思います。各個人が他の人々にも同等の権利を尊重する限りにおいて、自分の人生をどのようにも生きることができるという「法の支配の下で人間の自由をもたらす社会」がリバタリアニズムにとって最適なのは言うまでもないことでしょう。

 また、平和主義は個人の生命身体や財産を守るために国家にその役割を信託すること自体は問題がないとしても、現在の日本が採用しているような「自分の国を自分で守れない(国民の生命・身体や財産を守れない)」平和主義との整合性はないと思われます(勿論、だからと言って、徴兵制等も認められるものではないでしょう)。

 以上、簡単ですが、私なりにシリアスに考えてみました。このように考えると、日本国憲法におけるリバタリアニズムの生存可能性は限りなく「ゼロ」に近いように思われます。但し、私自身は日本国憲法を読み解く全体的な思想としてリバタリアニズムを置くことができないとしても、行き過ぎた人権侵害や経済的パターナリズムに対する「対抗軸」として、解釈レベルでリバタリアニズムを考えることは可能ではないかと思っています。

 そのためには、リバタリアニズムの視点で憲法判例を見ることも面白いと考えていますので、研究を重ねて、また投稿したいと思います。今回の論考で読者の方々が、日本国憲法に関心を持っていただき、ちょっと違った見方を楽しんでいただければ、幸いです。

参考文献

江崎道朗『日本占領と「敗戦革命」の危機』(PHP新書、2018)
愛敬浩二「憲法学はなぜリバタリアニズムをシリアスに受け止めないのか?」(『法哲学年報』(2004)、P76~87,203)
穐山守夫「新自由主義の意義と問題点」(『千葉商大論叢』(2006-09)44(2),P177~201)

小川一樹(@kazgrease

憲法学評論家。昭和12年学会会員。法学修士(憲法学)。元高校教師。近著に『蓑田胸喜 天皇機関説攻撃論集』(2019年)『帝国憲法基本書現代語叢書第二巻 市村光恵『憲法精理』』(2020年、以上デザインエッグ社)等がある。

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