新しい時代にふさわしい改革を次々と実行した依田佐二平


国会開設運動から10年経って第1回衆議院選挙が行われ、依田佐二平(よだ さじべい)は当選します。しかし衆議院は1年経たずに解散され、2度目の選挙で佐二平は落選。この頃彼は40代中頃でした。それ以降、衆議院議員になることはありませんでした。

佐二平は36才の時に汽船会社を設立。汽船による海路を開こうと、石川島造船所(現在のIHI・旧石川島播磨重工)に汽船を発注し、沼津-東京間を結ぶ初めての航路で汽船を就航させます。

また、佐二平は伊豆地方での鉄道敷設にも取り組みます。仲間と共に「伊豆国下田鉄道敷設の請願書」を貴族院と衆議院の両院に提出。その後の議会での議論を期待する形で請願運動は幕を閉じますが、それから約70年後の昭和30年代になって伊豆地域の住民の悲願は達成されました。

地域に養蚕業と製糸業を広める活動も20代後半から始めていました。桑の作付けを開始し、桑の苗を無償で配布したり、自費で養蚕の教師を招くなどしながら活動し、繭が伊豆南部でも生産されるようになると自前の製糸工場を設立しました。養蚕という一次産業と製糸業という二次産業を地域の中で融合させ、地域の経済を発展させることに成功したのでした。

晩年は道路を建設したり橋を架け直すなど、地元の交通網の整備に力を注いだ依田佐二平。詳しくはこちらの記事をご覧ください。

自由民権運動の壮士たち 第13回【後編】 『伊豆を中央から遅らせるな』と地域のために力を尽くした男 依田佐二平(静岡県)