土地の開墾から輸出まで 民の力でやり遂げた丸尾文六
明治時代以前、大井川を渡る時は川越人足(かわごしにんそく)を雇って川を渡るという制度でした。明治時代に新政府はこの制度を廃止。約600人いた川越人足たちの失業対策事業の一つとして、政府は大井川に面する牧之原台地の開墾事業を決定します。世話役になるよう依頼された豪農丸尾文六(まるおぶんろく)は米や茶の栽培を目標に事業の計画書を作成します。
丸尾の立てた計画の下で人足たちが集団で開墾作業を行ない、茶園の造成が順調に進み、3年目には茶摘みが行われるようになり、製茶作業も始められることとなりました。
幕末の開港以来、お茶はアメリカへの重要な輸出品でした。明治時代の前半、アメリカへの輸出茶の60~70%が横浜港から出荷され、その半分が静岡県産の茶だったと言われていますが、この頃、牧之原一帯では輸出用の茶の栽培と製茶事業が急成長していったのです。
こうした状況をふまえ、丸尾は地元に港を開き、その港に至る道を整備して地域の茶を集め、港から汽船で横浜港に直接運べるよう、会社を設立します。丸尾たちはすべてを税金に頼るのではなく、自分たちが起業した民間企業の経済活動によって地域のインフラを整備していきました。
製茶や輸出について自身も学びながら、地域や人足のためにお茶という新たな産業を根付かせた丸尾。詳しくはこちらの記事をご覧ください。